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2022年2月22日 (火)

冬奥会、背離する競技

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   冬季オリンピックが終わった。

  大して見てもいないくせに、その雑感をまとめている。

  昨日はその、競技者、選手たちの若年化について書いた。

 

   今日は、その競技そのものについて、感じるところを。

  オリンピックのそもそも・・ってか、その醍醐味はですね

  「より早く」「より高く」「より遠く」

  にあったわけですね。非常に分かりいい。

   早い話が、ニンゲン、まったく道具も使わずだれもができるし

  やってはいるが、その同じこと、走る、飛ぶ、跳ぶ、を

  極限まで表現する、競技者たちがいてそれに拍手を送り驚かされた。

 

   競技は単純であれば、単純であるほど、いい。

  なぜなら、容易に比較できる。自分も走ることはできるがあんなに

  100メートルを10秒ではとてもとても無理だし42キロの距離を

  2時間で走るなど信じられない。

   だからこそ、競技者、選手たちのその凄さがすぐにわかる。

 

   ところが、近代になって、どんどんそこから離れていく。

  例えば、全人口でスノーボートの人たちがどれくらいいるのか

  わたしには分からないが、

   特にわたしなどは、一切スノースポーツと縁がないので、

  あの選手たちの凄さがわからない。むろん、確かに人間業では

  ないな、くらいのことは分かるが、分かるが、前のように単純に

  あの人は早なぁ・・という、自分と比較してのそれがない。

   凄いがどれくらい凄いかが、

  映像ではわかるし、凄いとは思ってい入るが

   その感覚が違う。

 

   フィギアスケートで、何度も回転するのは大変だ、

  というのは分かる、分かるが・・・・

    だから・・・となる。

 

   道具を使わないごくごく単純な競技からどんどん近代の競技は

   離れつつある。

   例えば、同じ道具を使っても、

   重量挙げのあのバーを上げる、重さを競うありようは、

   自分でもわかる、実感として、あの重さを持ち上げる凄さが

   わかる。

 

    更にこれからは、どんな競技がオリンピックに入ってくるのか

   わからないが、

    わたしには、どうも離れすぎていて、実感がない。

  

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