悪い人たちと、善い人たちの差
足元から冷え込む、
暖房もないどころか、
店と呼べるような囲いもない、
自分はただ、路上に立ち、いつ来るとも、いつ売れるとも判らない、
それでも彼はずっと辛抱強く待ち続ける。
こういう言い方は悪いが、彼の売っている タンフゥルゥ という
飴かけの山査子、一本売っていかほどの儲けになるのか、
また、全て売れたからといって一体どれほどのモノなのか、
こうした風景は時々見かける。
それは彼であったり、彼女であったり、おばぁさんであったり、
おじぃさんであったり、時にこどもであったり、
売ってるものもそれぞれ違う。
違っていないのは、こうして路上で売るくらいだから、一人で
持ち運べる程度の量で、それはどれも値としては値のはるものは
ではなく、逆に安い安い、そんなものを扱っている。
で、何が言いたいか、というと。
昨日の話と関わってるんですが、
一方でこうした人たちがいると思えば、
一方で昨日のような人もいるし、
もっと悪い人たちだっている。
真面目に働き、暮らしている人たちが圧倒的に多い。
それはどの国も同じ。
彼が幸せでない、という話ではない。
もっと貧しいそうな人も中国で見た。
知識としては、更に貧しい人たちがいることも知っている。
社会の格差、ということがいろいろ言われている。
格差のない社会はあり得ない。嘗て中国はそうした社会を創ろう
とした時代があった。でもそれはお題目だけで、実現できないことは
恐らく誰もが知ってたと思う。
そして、それはこっちへ置いといて、富は必ずしも悪いものではない、
と言い始めた。
確かに富むこと、富をもとめることに罪?はない。
がしかし、昨日も書いた様にここ数年の中国の混迷ぶりは、
やはり、どこか間違っていたことに気づき、いままた少し戻そうとしている。
戻れるのだろうか?
また、どこへ戻るべきなのか?
いろんな人が語り始めてはいるが、
その指摘そのものが邪魔にされたりもしている。
わたしは別にこうしたおじさんのような物売りが無くなるような
社会を目指すべきと、言ってはいない。
こうした人がいて、いつでもあま~いタンフゥルゥが食べれるのは
ありがたいのだから。
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