あの「マグロ」が「中国」だったら・・・
昨日のお話、「マグロの値段は一体誰が決めるの?」は
流石にちょっと書いて、消化不良の感がある。
でも、この話どんだけ話したところで、消化しきれないのも
何となく気づいてはいる。でもでも、もうちょっとだけお話を、
というわけで何故か今日もその続きと相成りました。
「マグロの値段」は、その当事者(一人とは限らない)と、
それを取り巻くマスコミと、そのマスコミを見ることでそれを知らされ、
もっと知りたい!と思うのか、これ面白い!!と話題として受け入れる
のかそれらを享受するわれわれと、三位一体のところであの値段が
決められている。簡単に言えばそうなる。
このどれが欠けてもいけない。そのどれかが独りで決定することも
ない。この三者の微妙なバランスのうえにそれはある。
気になるのは、ここでの当事者は大体その当事者としての自覚?
はあるのだが、後の二者が実は全くと言っていいくらいその自覚を
持っていない点にある。
自分たちも実はこの「マグロの値段」に関与しているなどとは
ゆめゆめ思ってもいない。だが、実際は関与している。
マスコミは何でたかが一尾の値段がここまでになるのでしょう・・?
などとレポート―に語らせながら、こんだけデカイ値がつけば十分
ニュースとして扱えるな・・・とほくそ笑んでいる。
もしかしたら明日もこの話題でイケるかもしれない。
その一部始終??を見せられたわれわれは、その落札された後の
マグロの解体ショーから、それを食べることができた客の話題まで
見せられて、満足??する。1億5千マンのマグロの味ってどんな
なんだろう・・・と。それが、2億だろうが、2千万だろうが、2百万
でも味は同じなんだということに気付いているくせに、付き合う。
この映像は支持され、幾度も幾度も話題として提供される。
幾度も映像で映されれることになった落札者は、
これでこそ、高い値で落札した甲斐??があると、ほくそ笑む。
み~んながほくそ笑んでいる。
だから、誰がどうということもない?誰に責任もない。
そして、数日もすればそれらは綺麗サッパリ忘れ去られる。
実は「マグロ」も「中国」も同じで、この三者で創り上げられた
その個々のイメージが、その「値段(価値)」を決めている、と
言える。
それに「中国」という「マグロ」はやたらにデカイし、生きていて
それなりに反応もするし、黙っていてはくれない。
この点でかなりやっかいなんだが、だれもそれにも目を向けない。
「中国」報道を目にするとき、是非上の点にも留意してそれを
ご覧になっていただきたい、というがわたしの願い。
どうもわれわれが目にするんのは、どっかの切り身のところで、
それもまた、どう見ても美味しくもない、そんなところを切り取って
見せられている感がする。
それも一時にドットそんなのを見せられる。
でもそれは、幾日か過ぎればそんなことがあった事さえ覚えて
いないような、それって一体なんだったの?と後から思う。
ということで、
『南方週末』の記事改ざん問題、
これもまた、初セリの「マグロ」と
同じ運命になるのかどうか?
注目している。
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