今話題の、中国・重慶市共産党委員会書記・・・だった
薄熙来、中国語読みはボー・チィ・ラィ。彼は、
党中央政治委員会と中央委員の役職も停職となり、
大変なようです。
日本のマスコミでは相変わらずかなり衝撃的に扱われ
ております。確かに衝撃的ではありますが、この問題かなり
早くから取沙汰されていて、中国側の小出しの発表を待って
それをまた日本が小出しに興味のあるところだけ取り上げて
報じてますので、ちょっとゴシップ扱い的な所もありますが、
今日もまた報じれてましたから、それなりに興味はあるようです。
実は私、彼 薄熙来さんとは3回ほど数回お会いしてまして、
会ってるといったって向こうさんはお偉いさんですから、私は単に
お見受けした、というレベルの会い方です。
一番近くでお会いしたのはこの時ですね、
彼 薄氏はこのとき、遼寧省大連市市長。
中国でも大連はそこそこ大きな市ですし、
経済発展に伴い注目の都市でした
ので、そこの若手「やり手」市長として、ブンブン言わせてました。
また、報道新聞などでご存じの方も多いでしょうが、彼は革命第一
世代の息子、ということもあって、サラブレット、とも言われており
ましたし、実際サラブレットでした。
加えて、今の報道写真をご覧になってもその面影は十分あります
が、若い頃はもっとこう溌剌としていて、二枚目、イケメンでしたので
人気もありました。
上の写真の時は何かの打ち解けたパーティーの席ですが、
市長は取り巻き数人を従えてやってきて、「中国語が出来るそう
ですね」というから、はい、と答えたら、日本の話を少しして、
こちらが北海道から来ているというような話になって、サービス
精神旺盛な?彼は多分、その私の話に対するサービスだとは
思いますが、「北海道は是非、必ず行って見なくてはいけない
場所だ」ってなことを言って、周りの取り巻きというか部下の人
に、「北海道を重視せよ」見たいなことを話したりしてたのを今、
想いだしています。
大連市長時代の彼は、先に言った溌剌、というイメージが
ぴったりするようなやる気にあふれている感じがしていました。
若かった彼は次々に行政改革にも乗り出し、大連が他の都市
に先駆けて国外からの企業誘致に力を入れたり、その誘致の際
に当時は色々と中国独特のシステムやら慣習があってそれが
大連市でもかなり足かせになっていたのですが、それらを打破
し、辣腕という腕を発揮します。
大連はその諸策の甲斐もあって飛躍的に発展します。
まぁ”時代”もあったでしょうが、その”時代”をちゃんと読んで
”時代”が求めるものを彼はいち早く人々に届けることができた
人だったと思います。
回りの評価もそうした彼の能力を高く評価していましたし、
ご本人もその点では自信があったのではないでしょうか。
その後、といっても市長は一体何期やられたんですかね、
調べればすぐわかることなんですが、ちょっと面倒なので
すみません・・それに話の本筋とはそう関係がありませんので、
先に行きますと彼は中央政界に躍り出ます。
この時も颯爽としています。
中央では、通商大臣のクラスに入ります。中央政界入りと中央の
主要なポストを一気に手に入れます。
今回の事件の萌芽がどの時点にあったのかは私の知る
よしはありません。
彼の一生を振り返って、彼自身が今一番感じているでしょうが
どこかから彼は道を誤っていきます、
それは、彼が本来持っていた遠い昔のものなのか、
彼がいつかの時点から彼を取り巻く環境がそうさせたものなのか、
彼の奥さんの話題も取沙汰されておりますが、
一体お二人の暮らしは何時頃から誤った道を歩き始めたのか、
この事件の彼と彼の妻の責任の所在、責任の重さ、責任の取り方、
は、今後中国ですからその専門の部署があって、そう遠からず
明らかになるでしょうが、
いつもこの手の事件で思うのはそれらの不正を明かし、その
不正への厳罰を加えることで中国は事件を終えていますが、
もっと根本的に、一体 薄熙来 個人はいつの頃から何を
契機に、そこまで走って走り続けるようになったのかを、解き明
かすことがなくては、毎回同じことの繰り返しなんですが、
どうでしょう今回も無理ですかね・・・。
せいぜいが香港あたりのちょっと気のきいた記者が多少は
この問題注目して、深く踏み込んで書いて貰いたいものですが。
日本のマスコミやそした点を書く人はきっと現れないでしょうね。
それは期待できなし、
結局事件を大きなゴシップレベルで終えて終っては、
またぞろ同じで、またすぐ次の 薄熙来 を生み出すことになり
かねないのですが。
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