誤報ー江沢民死亡報道その後
その責任をとって辞任したとの発表が今度は報道された。
ことほど、中国政府要人に関する報道はその影響があることを
内外に示したことになる。
何故にこの誤報が起こったかはさまざま憶測がある。
そりゃそうでしょう。一応テレビの世界に昨日今日入った人ではないし責任の
ある立場の人が飛びついたからにはそれだけの何か?がなくてはならない。
それが明かされることはないので、どこまでもこれがまた憶測を呼び、
またまたその憶測に拍車をかけることになる。
ここではその後ろ側の話ではなく、昨日届かなかった、江沢民ご本人の
お話を少しだけ。
この方の日本嫌いは、その生い立ちにあると言われてますが、この年代で
育った環境もそのようですから、日本が好きではなかった。
“抗日革命烈士(彼の養父が)の遺児”として育った彼はその立場をよく理解
していたし、その後も度々烈士遺児への配慮から処遇を受けていたからこそ、
その後の彼の変わらぬ“抗日”精神は培われてきた。
可笑しなものでこれが彼の養父がもし亡くならずその後も存命で例えば
そのまま共産党の元老たちと同じように過ごし近代中国までいたとしたなら
その後の世界を見た養父からの影響も、彼自身の立ち位置も変わっていた
と思う。
そして、時代でしょうから彼に二人の息子がいるようですが、この息子の
代まで“抗日”を持ち越すことは流石に難しい。もっとも息子はアメリカ好き
のようです。
そしてあの「天安門事件」が、
1989年春、趙紫陽を降ろすことに決めた鄧小平の頭の中に最初から
江沢民の名があったとは思えない。
若返りを命題としていた中国指導層に求められていた若年化と、
指導部の裏切らない人材として浮かび上がった彼は、
自身で「おもいがけない」と言っているように突然の抜擢だった。
同年彼は中南海入り。中国共産党中央委員会総書記となる。
そのあと矢継ぎ早に、中国共産党中央軍事委員会主席、
中国人民共和国国家主席となった。
この時のライバル?というか江沢民自身には全くそんな気はなかった
でしょうが、片方に李鵬がいた。
そういう人がいきなり抜擢されると、それはそれでその人が権力機構に
組み込まれた時の大変さがあるのは分かる。その解決方法の一つが
“抗日”のカードで、これがその後も結構役に立っていた。
“抗日”カードは外(日本)に向けられて使われたかのような印象が
ありますが、以外に中(中国国内)に向けて使われ効力を発した時が
多かったと思います。
“抗日”の時に、日本の首領は“嫌中”だった。
この二人が上手くゆくはずはないのに、これまた経済とは面白い
もので、そんな政治世界を他所に、中国経済が伸び始めると共に
日本だけではないが世界の経済が中国をむき始め、日本はその
地理的距離とこれまで文化的(使い古された、一衣帯水の国)条件
から急激に経済面での結びつきを強くし始めた。
その勢いと、この両首脳の心の動きは相容れないものがあって、
その後も様々な問題はここにも原因があった。
もう一つ中国国内では、その後朱鎔基首相とともに中国の方向を大きく
変える舵取りをしていくことになります。
その根幹が経済にあります。経済を重視。
その事は経済の発展と、一方でさまざまな腐敗を生みます。
それがまだ尾を引いてますが、
来年2012年の党大会でまた権力の移行を済ませて、この問題にも
けりをつけたいのですが、腐敗の問題はそうそう簡単ではありません。
またこの腐敗の問題が政治のかなり重要な部分まで侵食していて、
これを断ち切るのがそのご本人たちという厄介な面を抱えてます。
此処にまた権力闘争の差し入る要因があって、
権力機構の誰がどれ程の情報と、その伝達経路を持っているかが
誰もが知りたいところ。相手の動きが読める為に。
ということで、一番最初の
誤報道の陰にはこの動きがあるのだろう、
との推測に戻るわけです。
いずれにしても大変ですね。
そのせいでしょうか、近頃ときどきこうした
退役後の暢気?な幹部の映像を流して
ますが、以前こんな画は流れなかった
ので、何か意図してるんでしょうね
きっと。
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