中国 携帯事情ー手機的力量
今日、函館はまた冬に逆戻り、外は雪。寒さもそれなり。
もう春かな・・と思わせといて、この時期いつもこうした肩透かしを喰わされます。
行きつ戻りつしながらの春の訪れが、早いのか遅いのか、そんなことを繰り返して
いるうちに、気がつけばいつのまにか“春”・・・とはなるのですが・・・。
これが自然のいいところでもあります。一気にいかない。行くのかなぁ、と
見せといて、また、戻る。戻っちゃった、と思わせといて実は進んでると。
ということで、このテクニックを私も学んで、話題は一昨日の
携帯電話(手機ショゥ・ジィ)に戻ったりします。
と、いっても私がとりわけ中国の携帯事情の詳しいわけではありません。
実は、日本の携帯だって殆ど分かっていなくて、その料金形態や機種など
まるで関心がありません。もともと、電話に関心がありません。嫌いなのかも。
電話ってホラ、突然やってくるでしょ、こっちの都合や状況に関係なく、
ですので、私にとっては邪魔された、くらいの覚えしかないのです。
ということで、中国最新携帯事情、などというお話しではありません。
そちらをご期待の方はそうしたブログを他でお探し下さい。
もっとボンヤリしたお話しにお付き合い下さい。
これは、中国に限らないことですが、「携帯(手機)」が世の中を変えた。
確実にそう言える。それは便利のレベルでなく、もっともっと深いところで
変えたんだ、というお話しを一昨日に少し致しました。
よろしかったら、日を戻って、ご覧になって見てください。
一方で、「携帯(手機)」出現後、あらゆることが、私には詰まらなくなった。
私の年代では便利になったという利点より、詰まらなくなって失ったものの
方が多い、と自分では思っている。失った代価が大きすぎる、とも。
そういう世代だ。生まれたときに携帯がある世代とは違う。
映画も小説も、「携帯(手機)」出現後は、それがあるおかげ?で、これまでの
ような物語が作り出せない。恋人同士がすれ違うこともなければ、小説の中に
携帯で呼び出されたり、のシーンがでてくるとそれだけで情緒が失われる、
情緒のいらないかの様な犯罪物の小説でもどこか余韻が残せないので、
詰まらない。かといって、現代を描いて一度も携帯が出てこない、使わない
のも不自然だ。
映画や小説は概ね今生きている人たちのその有り様を映しているのだ
ろうから、ということは人間の暮らしが詰まらなくなった、ということでもある。
余韻や、遊び心がもてない。それがデジタルの世界なのでしょう、
この天候のように行きつ戻りつしたりしない、結論があれば、それへ
まっしぐらに進む、そして間違わない。
機械はそれでいいかもしれない?が、人間もそれでいいの??
というのは前振りで、肝心のその中国との手機(携帯)の話しは、
多分このコンピューターの世界なんかは顕著ですが、私とは正反対の
機械大好き、デジタル至上主義の「技術オタク」の人たちが次々と新製品
を編み出していっていると思うのですね。
となれば、これからの中国は怖いですよ。こうした「オタク」を次々に
今育てているようなものです。これから中国発の世界を揺るがす発明品が
続々出てきそうです。
まだ今のところ中国は「山寨サン・ザァィ」(これ何と訳せばいいですか、
直接的はコピー商品をさすような模倣、とでも言っておきますか、元は
字でお判りのように山あいの要塞、山賊の住処、そんな怪しげなところで
作られるモノ、の意味で使われます)品が主力ですが、
私が知ってるのでは、今の、スマートフォンのようなやつは、確か、
中国でこの製品が「iPod」を早々と改造したやつで、かなり早くに出てた
という記憶している。
旅先で知り合った中国の人との雑談で、
彼の手機は、「ナビゲーション機能」がついてる。それが自慢。
4000元(≒5万円ちょっと)のそれはとてもじゃないが、一般の人には
高すぎる。ちょいとその機能とやらも表示して見せていただいたが、
表示されている地図とGPS機能がどなってるのかまでは訊けなかった
が、実にたよりない図面が表示されただけの画面だった。
つまり、どうもその、こうした端末機械の驚くべき発展と、
それが持っている機能を発揮するだけの周辺の情報とが、
中国ではまだ差がありあすぎて、機能がどれほどあったところで、
周辺が整備されない限り、機能が宝の持ち腐れとなってるのではないか、
というのが私の「中国手機」への疑問。
それでも、人々は最新の機種を求め、新しければ新しいの機能が
ついているほど売れてるようだ。
そうした、端末機としての手機、
もう一つ、「手機(携帯電話)」には、
それを使う人々の問題がある、
こちらの方はまた明日、
ということで、
明天見!!
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