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2009年1月31日 (土)

『私は勉強したい』(学校へ行けない子供たち)、今週読んだ本

Watasiha_bennkyou  格差社会がいろいろ問題になっておりますが、

 金持ちになりたい人が、そうした人達が金持ちを

 めざしその夢を実現させるために努めるのは、

 別にいけない社会ではないで。

  逆に、そうした能力も要求もないようなものがいて、

 一生貧乏で過ごす、ことはこれまた別に社会として

 なんの問題もありません。

  ただ、お金を儲けるためにその手段が卑怯で

 あったり、貧乏は構いませんが、その社会で最低

  必要と思われる部分は、社会が互いに譲り合い、享受できる仕組みを作るのは

  それこそが「社会」の役目でしょうから、格差社会と言うか、格差そのものは

  ともかく、「社会」が格差なく享受できる最低線のものを保証する必要はあります。

   この本は学校へ行きたくても行けない、そんな寧夏回族自治区、張家樹村の

  女の子を有名にした本です。馬燕 ちゃん。

   この子に限らずこうした子がいることはすでに知られていました、

  でもこうして一冊の本になってそれを突きつけられると、辛いものがあります。

  これは「社会」の問題です。ですが、「我々」の問題でもあります。

  学びたい意欲のある者が、学ぶ機会を与えられないのは「社会」にとって

 不幸です。本来なら、学びたい人は何時でも何処でも誰でも、学べる機会がを

 平等に得ることができる「社会」でなくてはなりません。

  ですから、大学やその以外の学ぶ機会は経済状態に関り無く誰もが受けることが

 できる環境になくてはなりません。

  そうは言ってもそれぞれの国の経済発展の状況もありますから、義務教育

 という、コレだけは最低学びましょう、学ばせましょう、の数年の教育機関を設け

 ました。ところが、その最低が守れないなら、それは「社会」として問題にしなくては

 ならないでしょう。ましては、そこに暮らす子供には何の責任もありませんから

 「社会」が手を差伸べなくてはなりません。

  そうした点での格差は、あってはならない。それは格差ではなく、「社会」の問題

 です。

  『あの子を探して』という映画もありました。農村のそうした問題はまだまだ

 解決されておりません。

  なかなか一気になくならない問題でもありますが、それをなくす努力は不断に

 続けてもらいたいもの。

  馬燕 ちゃんの日記は、最初は恐らく中国の単語もあまり知らないのでしょう

 それがだんだんに自分を見つめ自分のことを語る文章となってきます、

 しかしこうした表現方法を取るにも、教育が欠かせませんから、教育の大切さは

 やはり「社会」の問題であります。

  一体、この子と同じような境遇の子供がどれだけまだいるのかと思うと

 辛いものがあります。

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