李 鋭 函館での講演会 その様子2
昨日は、李 鋭 函館での講演会の、会場内の様子などをお知らせ
致しました。
今日は、当日の彼のお話そのものを中心にお知らせいたします。
演題は、「漢字による自己表現」という 題です。
壇上には、彼・李 鋭さんと、その横に 通訳の 毛 丹青 さんが並んで座り、
李 さんの話を、一段ごとに日本語に訳して、また、李さんが中国語で話す
というかたちでの進行です。
まず、彼の提案は、現代社会の中で、英語の占めている割合が余りに重く、
大きく、ともすれば、我々は気付かずに、その中で暮らし、それに巻き込まれて
暮らしている。いつか、そのことすら、気にもせずに。
とりわけ、コンピューター社会にあっては、英語は便利な言語手段としてますます
その割合を高めている。
一方、漢字は勿論中国で編み出され、その成り立ちからいっても、英語のそれとは
全く構成を異にする、言語といえる。
米語に代表される、言語形態と、私が使う、漢字の表現とは、自ずと離れたものが
あり、それに合わせることが所謂、近年特に叫ばれているグローバル化だとするなら
自分は、其処に踏み込まないで、違う道がある筈とおもうし、違う道を見つけ、そこを
歩いてゆくだろうし、現にこれまでそうして来た。
そうした全世界を飲み込むような、近代化と言われる浪は一時、漢字そのものをも
危うくする動きが中国にもあった。それは、漢字を生み出した中国にあっても、ある
うねりとしてあった。それを漸く持ちこたえたのは、自分達の文化が漢字によって
支えられていることに気付いた人たちがいたからにほかならない。
自分はこれからも、当然だが漢字での自己表現をつづけてゆく。
日本に来て改めて気付いたが、日本の漢字にある、中国が捨ててしまった漢字
の多くが今尚存在していることに、驚いたし、嬉しかった。
先に日本が中国から、漢字を数千年前に学んだが、現代は日本人の考えだした
漢字の使い方を中国が学んでいる。こうした関係は、えいえいと続き、世界にも稀な
関係を持ち続けていると思う。
今後も米語を中心として所謂国際化は進んでくるのだろうが、我はそれとは
違った「道」がある筈と思うし、米語圏以外の国々には是非、自らの文化を大事にし
いつも、自分を見つめる手段として、自らの言語を通して見続けることを期待する。
・・・
と、いった内容のものでした。
李 さんの中国語は本当に聞き易く、それを訳している、毛さんの訳も判り良く、
そう難しいものではありませんでしたが、何せお二人とも作家ですのでそこは
ちょっと癖があって、なかなか含蓄の有る部分もあって、面白かったです。
後半を、会場からの質問に答える形で、話を続けられましたが、
李 さんの 答えは、必ずしも真っ向から質問に対峙したものでは、なかなか
上手くかわした、質問とは別の回答が、語られてました。
例えば:会場からの、「現代格差社会をどうみるか?」との質問に、
李さんの答えは:「格差は人類の有史以来存在するものであり、今に始まった
ことではなく、人類は・・・・」 という回答でしたが、
会場の質問は恐らく、近年の中国の格差拡大について、質問したものでしょうが、
李さんも、それを知ったうえでの、こういう回答だったんだろうと思います。
李 さんは、格差は永遠にあるものであり、どうということもない、 と答えてますが、
格差から生まれる様々な問題には一切ふれませんでした、なかなか上手いかわし
かたといえます。
全体的に、かたぐるしい題の演題とは別に彼の話し方は、とても柔らかい、
ゆったりとした、話し振りでした。
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